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江夏投手と野村監督、ふたりで革命を起こそう!

江夏投手と野村監督、ふたりで革命を起こそう!

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【江夏投手と野村監督、ふたりで革命を起こそう!】



日、「江夏の21球」について記事を掲載しましたが、

その江夏豊さんと野村克也さんとは、かつて投手と監督の関係で強い絆を作り上げました。

この二人は、どちらも強い個性を放っており、江夏さんは一匹狼で容易に上司に従うタイプではない、野村さんは口うるさくしつこい頑固オヤジです。



とても二人が仲良くなれそうには思えません。

しかし互いに頂点を極めるような達人には、達人同士で通用する会話というのがあるのでしょう。



「士は己を知る者のために死す」

という言葉がありますが、江夏さんが野村さんを心酔するようになった理由は、まさにこれだったのです。


1976年、江夏投手が阪神から南海へ移籍する時のことでした。

南海には、選手兼任監督の野村克也がいました。

野村監督は、江夏投手に交渉の合間、ちょっとした雑談をしました。

'75年10月1日の、阪神対広島のゲームの話題を野村さんが持ち出したのです。

走者満塁で、敵のバッターは衣笠祥雄という場面です。

カウントは2-3。

集中力のある衣笠、しかしながらこのところ、ヒットに恵まれず、

幾分気持に焦りのある衣笠。



その強打者の心理を読んで、江夏は敢えて、フルカウントから意図的なボール球を投げます。

結果、この時の勝負は衣笠選手の空振り三振でした。



野村さんは、その時のことを克明に覚えており、江夏さんにこう言いました。



「あの時のボール球は、意図的なものだったんやな

誰にも知られていないだろうこと、それもかなり過去に属するゲームでのこと。

その時の細かい心理状況を、野村さんに読まれていたのです。

江夏投手は、当初南海に移籍する気は全くなく、阪神に在籍のまま現役を終えるつもりでした。

しかし、その時のほんの少しの雑談で江夏さんは、野村監督の野球観に影響を受けたのでした。


それがひとつのきっかけで、南海への移籍を決意した江夏投手でした。



そして、江夏さんが本格的に野村監督に心酔するのは、それから後のことでした。

当時の江夏投手は、すでに本来の豪球投手のピークを超えており、

また幾つかの病気を抱え、長いイニングを投げられない状態に陥ってました。

野村監督は、腐りかかった江夏投手にある提案をします。



先発ではなく、リリーフとしての生き方でした。


そんな提案は、阪神時代から何度も何度も受けていたのです。

そんな話は聞きたくもない江夏投手でした。

しかし、江夏投手の心が動いたのは、野村監督のこのひと言だったのです>>>

リリーフ投手という地位を高めようじゃないか

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時はリリーフ投手の地位は極めて低かったのです。

江夏投手の心理としては、トレードの上にリリーフか、何で自分ばかりがこんな恥をさらさなければならないのか。

持ち前のプライドが邪魔をして、なかなかリリーフの話に頷きたくありません。

ここで、野村監督はこういう言葉で江夏投手を説得したのです。


「二人で野球界に革命を起こそうやないか


これまで、専門職として確立した地位ではなかったリリーフ投手。

その地位を、二人でキチンとした地位に高めようじゃないか。

本来、安定したリリーフ無くして、先発の強みは発揮できない。

単なる縁の下の力持ちではなく、公正な評価を得るポジションとして、

リリーフ投手という立場を二人で高めようじゃないか、



それが野村監督の主張だったのです。



江夏投手は後にこう言っています。

「ムース(野村)の『革命』という言葉が心に響いた。

 革命と言われなかったらリリーフ転向は受け入れなかったと思う」

野村監督の言葉どおりに、そして、江夏投手のリリーフ投手としての

その後の復活も裏打ちするように、

やがて、日本プロ野球でのリリーフ投手としての位置づけが大きく変わりました。


『革命』の言葉どおりに、リリーフ投手という「ポジション」を変えたのは、この二人の力に負うところが大きいようです。




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